干潟八万石という言葉、ご存知でしょうか

干潟八万石は、寛文11年(1671)迄は椿の湖と言う周囲42km、東西12km、南北6kmもある大きな湖でした。

場所は、東京日本橋を起点にまっすぐ東へ80km 利根川と九十九里浜とに挟まれた内陸部に位 置します。

江戸の、白井治郎右衛門という人がこの湖を測量したら湖の底が平らなこと、九十九里浜よりこの湖の方が

3.8m高い所にあることがわかり、この水を九十九里浜に流したら立派な田畑ができると考え幕府に

干拓の書類を出しました。

幕府から検地に来ましたが、許可されませんでした。しかしあきらめず25年も交渉を続けました。

次に三重県伊勢桑名の辻内刑部左衛門という人が、この地に来て、白井氏と同じことを考え幕府に

湖の干拓の書類を出しました。幕府に信用の厚い辻内氏が干拓の書類を出したので辻内氏なら

この大きな事業はできるだろう、しかし25年も交渉にきている白井氏もいるので

幕府はこの両名に寛文8年(1668)に干拓の許可をだしました。

寛文9年10月3日起工式をおこない、仁玉、井戸野を通じる線を掘り、仁玉川の湖口より海に

流そうと計画し工事を始めたところ、農民より1500石の良田を失うこと、椿の湖で古来から

魚、貝、鳥類をとって職業としているもの多数あり、この農民漁民から強く反対され一時この工事を

中止することになりました。

今度は改めて後草、三川の間を川身27m両岸の各堤13mとして白井氏辻内は工事を分担とて掘ることに

決めて工事を進めましたが、白井氏は資金が乏しく工事ができなくなりとうとうこの事業を自廃する

ことになりました。

そこで、幕府は辻内氏と新たに野田一郎左エ門、栗本源左エ門の三人に改めてこの工事を委任しました。

これを三元〆といいます。。これで3人はその後続けて努力しましたが、川底に巌石が多く出てきて

思うように掘ることができずとうとう行き詰まりになりました。

三元〆は、この上は神様のお助けによらねば、工事の完成はできぬと考え、伊勢皇大神宮へ参り

梅谷左近大夫長重神主にこの工事の完成大祈願をお願いしました。神主は長い月日を要して

壱万度の御祈願をすませ、このお札に御神木を添えて伊勢よりはるばるこの椿の湖まで持って参り

湖水に浮かべ、この流れついた所を基準として掘ることにしました。

やがれ流れ流れて、今の鎌数伊勢大神宮近き当方の湖岸にながれつきました。

いよいよ神様のお示しと考え、この御神木をこの地にたて、御祓大麻(おはらいする榊)は今の大神宮の

小高き丘の上におまつりしていよいよ工事にとりかかりました。

そして今の新川をを掘りかけましたところ今度は不思議なことに仁玉、井戸野方面の農民の反対もなく

また漁民の反対もなく着々工事がすすみました。川身27m  両岸13mづつということにしました。

その内、辻内氏は病にかかり出ることができなくなり、むこ養子善左衛門がその業を継ぐことに

なりました。大事業となったため、資金が不足して6000両借り入れせねばならなくなり、三元〆は、

相談して鉄牛禅師というお坊さんに仲介をたのみ、幕府より借り受けました。

鉄牛禅師のおかげで工事も着々と進み寛文11年12月28日に土締切りの式を行いました。

寛文12年5月に待望の干潟が生まれました。その後だんだんこの干潟に住む者が多くなり

18ヶ村、春海村、米持村、秋田村、万力村、米込村、入野村、関戸村、万才村、八重穂村、幾世村

清滝村、大間手村、長尾村、高生村、琴田村、鎌数村、新町村、夏目村ができました。

明治9年実施大量5227町之を総称して椿新田といいます。

工事に関係した延人数27万1398人で、一日の手間は米5合という事です。

鎌数御伊勢様は、寛文12年に干潟干拓記念として伊勢皇大神宮より御分霊をお移しして

干潟の総鎮守産土神としておまつりしました。

またその時に春海の水神社、高生の八幡神社もおまつりしました。この神社を干潟三社といいます。

                千葉県旭市鎌数 鎌数伊勢大神宮 昭和48年資料より